通知音が鳴ってもいないのにメールを開き、友達もろくにいないのにLINEを10分おきに確認する。
筋トレや食事中は常にYouTubeに目か耳、またはその両方を捧げ、どちらが片手間になっているかわからない。
鏡に映る私は、気づけば死んだ魚以上に虚な目をしていた。
科学技術が発展し、短時間に多くのことを同時にできるようになった。
なのに、一日を終え、布団に身を包む際、どこか充足感に欠けている自分がいる。
色々あったはずなのに、その色々が思い出せない。だから空虚だ。
そんなとき、書店で見つけたのがこの本↓
こんにちは、うれいなつです。
以前は、本を読んでもメモを取ることもなく、書評? はぁ、そんなもんな、忙しい自分にとっては腰が上がらないんだよ。
いいか、重要な内容ってのはな、頭に刷り込まれてるから書き留める意味ないんだよ、などとおめでたくうつつを抜かしていたが、いざ感想は? と聞かれた際の予防線になっていただけで、実際も読了後何一つ言語化できなかったのである。
それが感想を読書ノートにまとめるだけで、見える世界は180度変わった。
教養が生活の節々にたしかに染み込んでいったのを感じた。
人は言葉によって将来の行動を意識する。
イメージとは違う、もっとはっきりした世界を、読書記録によって体現できたのは幸福の発見だった。
話が逸れてしまったのでそろそろ本題に入りたいと思う。
マルチタスクで脳が溶けてしまった私のようになっている人には、ぜひ参考にしたい一冊だ。
集中力が奪われる2つの原因
この本では、集中力が失われる原因について、大きく以下の2つが挙げられていた。
- 頭の中の雑念に負ける
- 外部からの刺激
ここまでシンプルな理由だったとは、と思わず唸ってしまった内容だったので印象深かった。
そして特に現代人は、2による影響が大きいのではないだろうか。
SNS、ゲーム、漫画、ジャンクフードなどなど、これらは昔からあったはずだが、現代では、それらのクロリティがあまりに向上してしまっているのが問題ではないだろうか。
いつでもどこでも低価格ないし無料で楽しめる、というのはユートピアの世界に生きている錯覚を起こすが、人の幸・不幸はそう単純にできていない。
幸せの閾値が下がるということは、同時に慣れを引き起こしてしまう。
いうならば幸せ慣れである。
そしてその慣れは、次第に飽きにつながる。
「人間の問題はすべて、部屋の中に1人で静かに座っていられないことに由来する」
フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが言っていたように、
人は苦痛や疲労の何よりも、退屈が一番嫌いだ。
退屈になると人は外部に刺激を求めるようになる。
お分かりだろうか? 慣れ→飽きる→2の無限ループが現代は加速している。
しかもそれが加速しすぎて、一度に複数のことをやるようになった。
ストレスにより脳が縮む
ストレスによって脳が変形するというのは、実際言われると衝撃を受けるのではないだろうか。
ここでは、ストレスの大小ではなく時間が問題だと感じた。
短時間に受ける過度のストレスよりも、長時間続く些細なイライラの方が身体に悪い。
なぜか。
そもそも昔の人と現代人とでは「ストレス」の種類や意味合いが違ってきている。
かつてのストレスとは、獲物に襲われた時に、逃げろ!と身体が反応するため、いわば生存に直結したものだった。
つまり、目の前から獲物(脅威)がいなくなると消える、短期的な生理反応である。
一方現代はどうか。
町で猪や鹿に襲われることはまずない。
その代わりに悩まされているのが、社会の効率化によって膨大に増えた仕事、将来の不安、SNSによる他者比較や人間関係。
これらは短期ではなく、月や年単位の長期でじわじわ作用するものだ。
これらの何がこわいって、その悩みのほとんどは幻想だということ。
実際、ペンシルバニア大学のボルコヴェックらの研究によると、心配事の79パーセントは実際には起こらず、しかも、残りの21パーセントのうち、16パーセントの出来事は、事前に準備をしていれば対処が可能。 つまり、心配事が現実化するのは、たった5パーセント程度という結果を導き出しました。
出典:プレジデント ウーマン
現代の心配事とは、今ではなく未来を想定して指すことが多いと思う。
幻想によって脳が縮んでいると考えると、自分的にはかなり虚しくなってしまった。
すぐに気が散る人ほど幸福度が低い
最近街中を歩いていてよく感じるのは、現代人はとにかく忙しくそうにしているなということだ。
常に何かに追われた表情で自転車をこいでいる人、しきりにスマホをチェックしないと気がすまない人、などで溢れている。
本書によると、常に慌ただしくしている人は、感動したり喜んだりする能力が失われてしまうらしい。
人を亡くすと書いて忙しいとは非常に的を得ている。
現代は思考よりも行動が優先されがち。
自分も、今の時間は生産的だったかな、とか、この時間時給換算でいくらぐらいだったかなとか、無意識に考えてしまっていることに気づかされた。
そもそも人間が一日にやるべきことなんて、そんなにあるだろうか。
SNSを見ていると、数の暴力というか、常に何かを生み出していないと生きてる価値がないのではと錯覚させられる。
自分ももっと頑張らなければ、という焦燥感、心がすり減っていく感覚に襲われる。
なぜこの人たちはこんなに創作を高頻度で投稿できるのか。
けれど、よくよく考えてみてほしい。
私たちは全知全能ではないし、未来永劫そうなれない。
ボルトのような100mを9秒台で走れて、ピカソのように何万枚もの絵が描けて、エジソンのように天才的発明ができて、ニーチェのように聡明になれる…。
ちょっと待って、完璧目指してない?
人の素質はもっと凸凹で、向き不向きが全然違う。
時代と才能がマッチしただけ。
すべて完璧そうに見えるあの人も、それは一部分を切り取っただけの話。
何よりもハロー効果に惑わされているだけ。
中身はそれほど…なことも多い。(毒)
自分は神になれない、と落ち込むことは、自分は魚のように水中で暮らせないんだ、と悔しがるくらい馬鹿げている。
さいごに
一度に一つを集中する、という技術は、年々難しくなってきていると肌で感じる。
この本を読んで、心に残った言葉があるので共有したい。
時間は節約などできない。使うことしかできないのだ。
コスパ、タイパなどと最近よく耳にする。
徹底的に時間やタスクを効率化した先に得られる未来は何なのか?
私は、「喪失感」だと思う。
多くの物事をこなしたところで、どこか虚しいのだ。
山奥の家、縁側でお茶を飲みながら自然の風に涼むおばあちゃんの光景が、想像しただけで落ち着くのは、そこには時間がゆっくり流れているからだと思う。
おばあちゃんは何か社会にとっての重要なタスクをこなしていないけれど、最高に幸せそうに生きている。
時間は、命と同義だ。
あなたは命を効率化しますか?